支部長挨拶
 北九州市立大学同窓会和歌山支部の皆さんお元気ですか。支部活性化のために服部幹事長がひと肌脱いでくれようとしています、 ウオーキングで説明しきれなかった分をここで表示します。



 紀三井寺は滋賀の三井寺を真似て紀州の紀を付けたと思っている人が多いのですが、そうではなく、 ここに三つの井戸があったので三つの井戸の寺、三井寺その上に紀を付けたと言われています。
 紀三井寺は桜の名所でもあり、 境内には桜の基本木があります。またここには、松尾芭蕉の「みあぐれば さくらしもうて 紀三井寺」の句碑があります。
 写真の説明をします、上から紀三井寺本堂。紀三井寺は観音菩薩をご本尊としています、その下が千手観音。そして、その下が 紀三井寺の基本木となっています。





 紀三井寺の裾に和歌の浦があります。
 和歌浦は元々、 若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が『万葉集』巻六の919番歌に、「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。 また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」 (あかのうら)と改めたとも記載されている。和歌浦には明光商店街があるが、これは続日本紀の明光浦の呼称にちなんでいるものである。
 平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地と して知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃で あり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる。
 当時、和歌浦で最も著名な景勝は玉津島である。当時の玉津島は海上に 浮かぶ小島であった。そして、潮の干満で陸と続いたり離れたりする景観を呈していたという。その神聖さから丹生より稚日女尊、息長足 姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられた。また、玉津島の西側に発達した砂嘴は、片男波も今よりずっと内側に入り込んで いたものと推測されており、赤人の句のとおり、葦などの水生植物が生い茂る湿地帯であった。
 この和歌浦は都に近いことも相俟って 多くの文人、貴族らに愛されてきたが、とりわけ聖武天皇はこの和歌浦を気に入り、何度も行幸している。また、この風致を維持するため に、守戸と呼ばれる監視役を配置させた。
 また、平安の頃には康保年間に、神霊の勧請を受けて天満宮が建設された。 これは菅原道真左遷の際に、風避けの際に和歌浦に立ち寄ったことが縁となっている。
 写真上から島へ向かう橋で妹背山と呼ばれる 小島にあり、紀州藩初代藩主徳川頼宣が木造の水上楼閣として建立したものです。妹背山を登ると、海禅院多宝塔があり、承応2年(1653年) 頼宣が母養珠院のために建立したものです。この観海閣から名草山にある紀三井寺を遥拝したと伝えられています。開禅院、観海閣、 片男波,不老橋となっています。
 和歌山支部にはこういう多士済々の人材がいますが、何分にも高齢化が進んできています。これを解消すべく 支部長他役員が、県内の高校を回り進路指導の先生に、生徒を北九州市立大学へ進学するよう勧めていただきたいとお願いに回っています。
 学内に和歌山出身の学生が増えれば、県人会を組織してもらい就活支援を通して、和歌山に就職してもらい支部活動に積極的に 参加してもらうという構想実現に取り組んでいます。
 会員の皆さんのご協力をお願いします。
戻る